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札幌市内地下街で情報図書館のポスターを見て、行ってみたら混んでいた。いつ行っても混んでる。 書店の過疎化を憂慮している僕が、情報図書館は何故混んでいるんだろう、という気持ちになった。両者は同じ本という物を扱っているけど、歩き方が違う。
情報館は選書として、憩いと情報の邂逅の場として建立されたのに対し、本屋は本を販売しているだけだから。両者の市場での立ち位置は、端正的ではないけど、対照的でもない。 にもかかわらず相対的な比較を試み、変化を促した。アインシュタインにさえ理解されない僕の目の前にある創生物は、広大かつ深遠でいびつ。それを分かろうとする。
マクロ視点で消費者行動における余暇の過ごし方、レジャー産業を見た時、書店と情報図書館は同類ではない競合になりえるはず。まずユーザーの認識から書いていく。書店は 駅前の大型書店と言われて、存在を想像できない消費者はいない。でもまぁ空いている。情報図書館は知らない人もいるので、どちらかだけ利用する人もいる。もう一度言うどちらかだけ 利用する人もいる。
でも世の通説の通り、北半球が夏ならば、南半球は冬の如く、情報図書館が混んでいる。近くの書店より。 だからまず情報館の特徴について羅列する。集められた情報物に対して、まずそれ自体が魅力的なのかどうかを評する必要がある。目につくところに置かれ、ポップに書かれて付加価値をつけられている 。でも長く続いているから。客は満足しているので、セレクトされた情報は信頼できると推挙した。
一方の本屋は蔵書数は夥しい。情報館で貸し出されている本は、ほぼ全て販売しているだろう(ここにポイントがある)。(大きなブックセンターと仮定している) 客に探求心さえあれば、その欲を大概のキャッチコピーが満たしてくれる。本屋の店員まがいの奴らもいる。
当たり前っちゃー当たり前だけど、選択された情報に量が傾いている。ありがたみは勿論感じている。良い本だから選択されているのならば、何も言えない。 でもなんかジレンマだ。眠っている良本もあると思う。ロングテールが消えないで欲しいのもあるし、薦められるに対して、悪い気はしない。 自分で好きな本を探せばいいじゃないか、オフィスビル街の中心で感性と知覚を自覚して、大人達のおすましの場だ、と言われたらその通りだ。ネットだって便利だけど。
本屋も集客のための企画を起こせば良いじゃないか?昔タワーレコードのポップを読んで買ったCDが、薄まらないオマージュを捧げた。 世代、性別、にっちもさっちもいかない層に絞ってみたっていい。 深みを売り文句にしたって、泣く子も黙る度合いになる、かも知れないしね。
情報図書館は「買う」という目的では作られてない。だから混んでる混んでいないは、あまり関係ない。でも窓口はホールケーキのろうそくのようだ。どんな蝋燭かを想像するのは、あなた次第。 情報館で新しい本と出会い、本屋やネットストアで購入するサイクルが生まれている。互いがリンクされている、人と物の歪んだ構造。疑う余地はないけど、好循環は生まれているかも知れない。
カフェに置いてあった本を記録して、その本を本屋に買いに行った。本屋は最終地なのかもしれないし、トリガーなのかも知れない。
開放的かつ知的な空間で本を嗜むという付加価値の力はリスペクトするしかない。動機付けされると人は行動したくなるものなのかもしれない。 その行動のサイクルを僕は見えていないのかも知れない。
でも図書、情報館で満足して、本屋には行かない市民もいるだろう。 量子論的視点で見る必要もある。一定数。